魚三九について ABOUT
CONCEPT コンセプト
INTRODUCTION 魚三九のご紹介
01 “療養所門前町”の商店街
埼玉県との境に位置する清瀬市は、病院の街だ。池袋から電車で25分ほどで空気が綺麗なことから、1939年に開所した傷痍軍人東京療養所を皮切りに、結核関連の研究所や病院が次々に建てられ、療養する宮様を見舞うために道路整備も進んだ。官舎に住む医師や看護婦、また富裕層の療養者は御付きも多いので、彼らの需要を満たすべく、病院通りに芝山銀座商店街が形成された。患者に滋養のあるものを食べさせようと、かなりの高級魚も売れたそうで、鮮魚店だけでも10軒以上が軒を連ねたという。魚三九もその一つで、近くの兄の鮮魚店で修行した初代の金子三九三さんが1951年に創業。今は2代目の光利さん(68歳)が社長を務め、弟の秀利さん(65歳)が専務、 長男寛和さん(38歳)、次男の義和さん(33歳)が実務の中心となっている。
02 病院相手ではやれない時代に
30年ほど前までは、これら病院からの注文が商売の主体だった。毎日、膨大な量の切り身を、重さも見た目も同じに切るのは楽ではなかったが、経営の不安はなく、家族以外にも数名の正社員を雇用していた。
だが、昭和も終わりに近づくと、病院経営も大変になり、同店への注文数も単価も大きく落ち込んだ。商店街もシャッター通りとなり、気がつけば鮮魚店は同店だけに。
もはや病院相手の卸主体ではやっていけない。そして、一般客にとっての“魚屋”はスーパーになりつつあったが、光利さんは店舗兼自宅を3階建てにリフォームし、1階部分 (約60坪)を丸々、売場とバックヤード、事務所に充てた。売場では平台を拡充し、一般客中心の業態への転換を図った。1988年のことだ。
けれども、ひたすら切り身を切ってきた従業員たちは対面販売の経験が乏しかったこともあり、売上は上向かない。光利さんは、店の行く末を考えるようになった。
その頃、寛和さんは割烹板前として、義和さんは大手企業の人事部でそれぞれ活躍していた。父から相談を受けた寛和さん、自分たちを養ってくれた店を潰すには忍びない。だが、現状は自分が思い描く鮮魚店とはかけ離れている。やりたいようにやらせてもらえるなら、なおかつ、一人では店を変えられないので弟の義和さんも一緒にやってくれるなら店を継ぐ、と告げた。光利さんも、弟の秀利さんと二人三脚で店を支えてきたからだ。
03 業態転換と新規開拓
かくして、寛和さんは27歳のときに家業に就き、3年遅れて義和さんも合流。板前だった寛和さんはともかく、畑違いから飛び込んだ義和さんは、寝る間も惜しんで魚について学んだ。
兄弟が思い描く鮮魚店は、買いに来てくれるお客を大事にする店。駆け出しの2人にはまだ実績も信用もないが、光利さんがまだまだ元気で仕入れにも行くので、築地からいい魚を持って来られる自信はある。初代からのつながりもある。それらを土台にどうやって新規客を得るか。
長年勤めてくれた従業員が定年時期を迎えてもいたので、人員も一新し、採用のプロである義和さんが面接して、同じ思いで挑戦してくれると確信できた人だけを新規採用した。経理については、大手企業でその経験を有する寛和さんの妻、彩子さんが担当することになった。
顧客開拓については、まず、寛和さんが同級生の兄が若旦那を務める、隣接市の高級和食店に営業をかけた。若旦那自身が最寄りの地方卸売市場まで仕入れに行っていたのだが、「それに負けない魚を安く入れます!」と大見得を切った。そして、フグも売りにしている同店の魚の仕入れ一切を任されるようになり、さらに若旦那を介して同地の青年会議所メンバーにも人脈が広がった。板前だったことで料理店側の機微がわかることも、信頼獲得につながった。
義和さんも、伝手を辿って高級料亭の仕入れを掴んだ。後述する割安感が大きな強みで、最初は「悪かろう安かろうでは?」と信じてもらえなかったほどだ。
大口顧客を得たことで、魚三九の売場には、変わった魚や高級魚、お買い得な魚が常時並ぶようになり、これにつられるように一般客が増えた。元板前の寛和さんの接客はまさに痒い所に手が届き、その評判を聞いて近所以遠の飲食店主なども…という好循環に。
04 魚三九の一日
魚三九の一日を紹介しよう。仕入れは寛和さんまたは光利さんが、清瀬から1.5t車で築地市場へ赴き、馴染みの仲卸十数軒を毎日回る。業務筋の顧客から頼まれている魚を中心に買い付けるが、仲卸が見切りを行う時間帯が勝負だ。 売り切れて入手できなければ元も子もないから、どの順番で仲卸を回るかも重要となる。必要な魚は前日注文で押さえれば安心だが、それだと高く付いてしまうことが多い。注文を受けた魚種以外は定番化を志向しないこともポイントだろう。
店に戻ったら大急ぎで荷を開け、店内に並べる。仲卸からの納品書を壁に貼り、それを見ながら義和さんが値を付けていく。業務筋の何人かは、11時の開店前にやって来るので、寛和さんが対応し、今日のおすすめ魚やその料理法などを提案。厨房では、光利さんがマグロを、秀利さんが切り身を加工している。女性パートがレジや加工品の陳列を行い、手が空けば、前日仕入れた魚で惣菜をつくる。
一般客が来店し始めるとてんやわんやの忙しさだが、寛和さんがそつなくさばく。義和さんや3人の従業員も同様。黙って魚を見ているお客などいない。皆、説明を聞きたがり、店員側もお客の視線を追って積極的に売り込む。セルフの売場では経験できない活気、賑わいだ。閉店は19時半。
05 飲食店の仕入れ場所としての魅力
業務筋のお客は、ほぼ毎日仕入れに来る常連だけでも十数店、たまにやって来るリピーターもいる。高級店も大衆店もあるので、それらお得意さんを頭に浮かべながら、同じ魚種でも活締めと野締めの両方をそろえたり、1kg超の巨大なサザエなど、話題になりそうなものを仕入れたりしている。取材日の巨大なマテガイは、「刺身で出す」と料亭が全量買い上げた。
池袋で焼き鳥店を営んでいる常連さんに話を聞くことができた。清瀬に生まれ育ち、魚三九の存在は知っていた。当時流行っていたサンマの刺身を使ってみたいと思ったが仕入れ先が浮かばなかったので、魚三九で買ってみたら大当たり、以来、ほぼ毎日通っているという。クーラーボックスを担ぎ、自宅から自転車で来店、店のある池袋までは電車だ。いろんな種類の魚があり、自店で“話の種”にできる情報も得られるのがありがたい。魚種にバリエーションがあるので、同じ料理で魚の種類だけ替えて“日替メニュー”にできる。さらに、ニシンの刺身など、お客が驚いたり喜ぶものが手頃価格で入手できる。この店がなかったら魚メニューはやっていない、とのことだった。
寛和さんたちと同じ30~40代の飲食店経営者が多いようだが、夜が遅い彼らにとっては、睡眠時間が確保できる仕入れ場所にもなっていよう。鮮度が命の刺身は、小さな飲食店でも当日使いきれる1/4尾や1/8尾でも販売し、重宝がられている。
06 一般客も増加中
同店の課題について寛和さんに尋ねると、一般のお客様への対応が後回しになっているように感じられないこと、だという。同店の売上比率は、平日(築地が休市の水曜も営業)が一般客7:業務筋3、土曜(日曜定休)が同9:1からも、 一般客を二の次にする考えはまったくないが、購入ロットの大きい業務筋客とのやりとりは相応の時間を要する場合が多く、その間、一般客は待たされる格好にもなってしまう。店員を増やせれば一番いいが、現時点では難しい。口コミにより一般客も増えているため、なおさら気になっているようだ。
魚三九のショーケースを見ていると、国産魚の多彩さや魅力を再認識する。来店客もそこに反応しているのを肌で感じる。やはり魚という商品は、独自の知識や手間を伴うものなのだ。このような元気な魚屋が少しでも多く残ってくれること、否、増えてくれることを願う。
GREETING 代表挨拶
金子 光利 KANEKO MITSUTOSHI
当店のホームページをご覧いただきありがとうございます。
私たちは地域の鮮魚専門店として、皆様に笑顔を届けるため、全力で突っ走ってきました。これからもより多くの方に、当店自慢のこだわりのお魚をお楽しみいただけるよう、精進してまいります。
金子 寛和 KANEKO HIROKAZU
【魚三九】は、創業より70年以上が経ちました。皆様に感謝申し上げます。感謝の気持ちを胸に、より一層皆様に愛される鮮魚専門店へと成長していく所存です。これからも末永くよろしくお願いいたします。
INFORMATION
会社概要
- 会社名
- 有限会社魚三九
- 住所
- 〒204-0022
東京都清瀬市松山2-14-16
- 電話番号
- 042-491-0062
- 営業時間
- 12:00~19:30
- 定休日
- 日曜
- 最寄り駅
- 西武池袋線「清瀬駅」より徒歩9分